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「現代では無用といえる吉原遊郭の知識」
もくじ
遊女の起源
吉原遊郭を語る前に、遊女の祖先や起源を歴史的に辿ってみよう。
そこに意外な事実が見えてくる。
貴族の宴会に歌い踊る女性(遊部)を派遣する豪族が登場。
いつの世も、宴会には女性が呼ばれる。
豪族のために歌い踊る女性を統括し、
派遣していたのが猿姫君(サルヒメノキミ)という豪族。
歌い踊る女性たちのことを遊行女婦(あそびめ)と呼び
これがのちの遊女になっていったと考えられている。
遊行女婦(あそびめ)と遊女の違い
遊行女婦(あそびめ)は遊女とは違い、
金銭の対価を得ようとしなかった。
遊行女婦を統括した豪族の祖先をたどる
遊行女婦を統括していた猿姫君(サルヒメノキミ)という豪族の祖先を辿ると天鈿女命(あめのうずめのみこと)に行き当たる。
この天鈿女命は天照大神の神隠れの時に活躍した神だ。
この女性のおかげで、日本に太陽が戻った。
そして神にお仕えする巫女もその祖先を辿ると天鈿女命に行き当たる。
吉原遊郭の誕生と終了の流れ
1618年から1958年の公娼制度廃止までの340年間にわたって栄えた吉原遊郭。
廃止されて随分経つが、今でも人々を魅了している。
その吉原遊郭の誕生までをチャートで学習しよう。
遊郭遊女の格付け
どこの世界にも格付け=ヒエラルキーは存在する。とりわけ吉原遊郭は、他の世界よりも見栄と意地が張り合う階級社会と言ってもよいだろう。ここでは遊郭の店の格式と遊女の格式を紹介する。
ランクの高い方から
- 大見世
- 中見世
- 小見世
- 切見世
となっている。
江戸後期には遊女屋が200軒超
最盛期は遊女が6,000人超
最高ランクの花魁との関係コストは年間3000万円
いわゆる花魁といわれる遊女は大見世に在籍していた。
花魁との関係維持には1晩15万円、年間コスト3千万円が必要であった。
床入りまで3度も通う必要があるという客を品定めするような厳しいルールもあった。
最下層の切見世(浄念河岸、西念河岸、羅生門河岸)
最下級で遊女の質が悪い切見世。定年後の遊女が在籍しており、時間制で15分2500円。
吉原遊郭内のメインストリートから外れた裏通りに店を並べていた。
この通りを浄念河岸、西念河岸、羅生門河岸という。
特に羅生門河岸が下品で、この道を通る男の手や袖をつかみ無理やり店に連れ込むようなところであった。
羅生門河岸の現在位置
台東区千束4丁目の地図の赤枠内が吉原遊郭エリアだったところで、浄念河岸、西念河岸、羅生門河岸はその端に位置していた。
妖怪ろくろ首の正体は羅生門河岸の遊女説
じつは妖怪のろくろ首は羅生門河岸の遊女をもとにしているという説もある。
遊女の格付け
当初の客層は役人や武士であったため、遊女には教養が求められた。
太夫、格子とよばれる遊女が対応に当たっていた。
しかし、江戸の経済が成熟するにしたがって、町人の方がお金を持つようになり、メイン客層が町人となった。
町人相手には教養は必要なくなり、太夫、格子の需要が減り廃止された。
呼出、昼三という格の遊女が花魁と呼ばれる。
花魁道中ができるのはこの2つのランクのみであった。
吉原遊女のライフプラン
貧しさ故に親に売られ、遊女として連夜男を相手に生き続けた遊女。
そんな親孝行で悲しい娘たちの一生とは・・。
全員が悲観していたわけではなく、どうせ貧しい村に戻るより、飯を食べれる遊郭に留まっていたほうがまだマシだと思う女性もいたそうな。
参考文献:「江戸の色町 遊女と吉原の歴史」 安藤 優一郎
江戸の色町遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活 [ 安藤優一郎 ]