作曲家 古関裕而!歌い継ぎたいの名曲の数々(戦時歌謡)

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貴方は古関裕而なる人物を知っているか?

阪神タイガースの「六甲おろし」や甲子園の「栄冠は君に輝く」そして東京五輪の「オリンピックマーチ」などを作曲した人物だ。

大衆に好まれ数々の大ヒットを生み出している。

そして氏は戦中に多くの軍歌・戦時歌謡曲を作曲した。

古関裕而の戦時歌謡には高揚感もあるが一方で哀愁や悲壮感を帯びたメロディとなっており、これが日本人の髄に響く。

今回は、今もなお愛唱(一部の愛好家に)されている古関裕而の魅力に迫りたい。

故郷の福島での作曲の日々

大自然に囲まれた福島県に誕生

福島県福島市の盆地に明治42年(1909年)8月11日生まれた。本名を古関勇治。

福島県の吾妻山の風景

父は大正初期では珍しい蓄音機を購入しレコードをかけて暮らすほど音楽好きであった。

生家の向かい側に一軒の魚屋。そこに住んでいたのが、のちにタッグを組み数々の名曲を作り出すことになる詩人の野村俊夫である。(「福島行進曲」や「暁に祈る」)

音楽との出会い

小学校3年。担任の先生が音楽好きで 生徒に童謡を作らせるほど音楽指導に力を入れていた。

おとなしい存在だった古関少年が作曲になると夢中となった。

しだいにクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。

頼まれて作る。できると楽しい。これの繰り返しで知らずうちに作曲に親しむ事となった。

授業だけでは物足りず、市販の楽譜を購入するようになる。当時は楽譜の表紙が竹久夢二の絵であったことも古関少年を喜ばせた。

そして母が卓上ピアノを古関少年に買い与えた。その日から楽譜を買ってきてはピアノに向かうことに熱中し作曲と編曲の日々を過ごした。

竹久夢二との出会い

竹久夢二が福島に訪れ展覧会を開いた。

その展覧会で見た「福島夜曲」と題した詩と絵に感銘を受けた古関裕而(当時20歳)。

詩をノートにメモ書きし、帰宅後すぐに作曲をした。

その興奮のままに、曲を夢二に捧げようと夢二が宿泊していた福島ホテルへ20歳ばかりの古関裕而が押し掛ける。

喜んだ夢二はお礼としてその場でスケッチブックに吾妻山を描き、古関裕而にプレゼントした。以降、夢二が亡くなるまで文通をする仲であった。

夢二との最後の文通

 

上京、コロムビアレコードの専属作曲家へ

当時師事していた山田耕筰の計らいでコロムビアレコードの専属作曲家となる。しばらくすると、日本は第二次世界大戦への道を進みだす。おのずとレコードで発表する作品は戦時色が強まることに。古関の作曲の才能は戦時歌謡で発揮することになる。

古関裕而というペンネーム

本名は古関”勇治”

18歳の時に自分にしっくりこないので音楽家らしい名前に変えようとペンネームを”裕而”とした。

当時は「裕」という単語を名前に用いるのは珍しい。昭和天皇の名前の一字を拝借するようなことは当時の人々はしないからである。

名コンビ伊藤久男との出会い

古関裕而の曲を歌わせたら伊藤久男の右に出るものはいない。

出会いのきっかけは古関裕而の妻 古関光子。

光子が入学した帝国音楽学校に伊藤久男がいた。

当時阿佐ヶ谷に住んでいた古関夫婦は妻の通学を考慮し、世田谷代田に引っ越した。

そこが伊藤の下宿の近くであった。そんな訳で伊藤はいつも古関の家へ遊びに来るようになったという。

後に一緒に名曲を生み出す二人の出会いであった。

古関裕而と伊藤久男コンビの曲にはハズレがない!

ヒット曲:露営の歌

「進軍の歌」というレコードのB面として作られたが、最前線の兵士たちは「進軍の歌」よりも「露営の歌」を好み全員で合唱したという。

当時は出征兵士の見送りのときは皆が日の丸小旗を振って、これを歌った。古関裕而の母は息子が作った曲を地元のみんなが歌うようになったので、大変喜んだという。

※歌詞の一部抜粋

勝ってくるぞと 勇ましく

誓って故郷(くに)を 出たからは

手柄立てずに 死なりょうか

進軍ラッパ 聞くたびに

瞼(まぶた)に浮かぶ 旗の波

ヒット曲:暁に祈る

古関自身、数多い作曲の中で最も大衆に愛され、快心の作と述べている。

そしてこの曲では福島県出身の3人が念願叶って揃う。

作詞:野村俊夫(古関裕而の生家向かいの家に住んでいた)

作曲:古関裕而

歌手:伊藤久男

地鳴りのように鳴り響くイントロのラッパ。

戦地に赴く兵士の心情を映した野村俊夫の歌詞。

歌い手の伊藤久男の力強いバリトンボイス。

妻や子を故郷に残して外地に赴く兵士たち。

そしてそれを見送る若い妻や幼き子。

言葉に発することができない互いの心情を見事な詩と曲と歌で代弁している。

 

みんなこの歌をどんな気持ちで唄った事だろうか。

合唱すれば必ず泣くと知りつつ歌うのだろう。

手拍子を打つ手でこっそり涙を払いながら蛮声をはり上げる。そんな姿が目に浮かぶ。

※歌詞の一部抜粋

ああ あの顔で あの声で
手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗
遠い雲間に また浮かぶ

 

ああ あの山も この川も
赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に
あげる興亜の この凱歌

軍歌祭では「暁に祈る」で会場が一つになる

毎年行われていた軍歌祭では、暁に祈るが演奏されると、日の丸の旗をちぎれるほどに振る客で観客席が1つになる。

私の目の前で旗を振る高齢の婦人。

もしかしたら若き日に夫や兄弟をそうやって見送ったのかもしれない。

古関裕而は戦後に後悔の念が消えなかったという説もある。

自身が作曲した軍歌戦時歌謡で多くの人を戦争に駆り立ててしまったと。

しかし戦後70年以上経った今も、か弱き腕で旗を振りこの歌を歌う婦人がいた。

歌い継がれる名曲であることに間違いはない。

通常の生活でこの曲を耳にする機会は皆無だろう。

古関裕而の戦時歌謡には他にも多くの名曲がある。

「海を往く歌」「赤子の歌」「シンガポール晴れの入城」「若鷲の歌」「あの旗を撃て」「嗚呼神風特別攻撃隊」

挙げたらキリがない。

興味のある人はyoutubeでどうぞ。


「参考文献:鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」