忙しい大人のための「226事件」早わかり~かつての青年らの憂国物語~

 

神奈川県の湯河原にある「光風荘」

ここは226事件で唯一首都東京以外で現場となった場所であり、

数少ない226事件の資料館として残されている。

 

光風荘。元内大臣の牧野伸顕伯爵が襲撃された。

元内大臣の牧野伸顕伯爵が襲撃された光風荘。今は資料館に。

私がここを訪れた際に

「最近は、東京から中学生の見学が多いんです。なんでも226事件がお受験の問題に出てくるようになってそれの学習の為だったり、それをきっかけに事件をもっと知りたいということで親子でいらっしゃる」

本資料館の観光案内のボランティア杉本氏が教えてくれた。

 

ムラムラの塊であったはずの中学生が226事件を学ぶために湯河原まで来ている

そんな現実に軽く衝撃が走った。

己を恥じたわけだ。

事件から80年あまりも経過した今では、

226事件については相応の歴史マニアでない限り、

いまの大人たちは語ることが困難だろう。

「軍部の暴走でクーデターでしょ?」程度の認識ではないだろうか?

ギチマガ読者諸君には

中学生のお受験勉強に負けぬよう本記事で学習してもらいたいと願う。

 

 

大人のための226事件5W1H

とはいえ、毎日の仕事で忙しい大人たち。

ムラムラ盛りの中学生とは自由時間が雲泥の差だ。

よって226事件を5W1Hでまとめた。

 

5W1H内容
When(いつ)昭和11年(1936年)2月26日
Where(どこで)首都東京および神奈川県の湯河原
Who(だれが)20人の青年将校を中心とした軍人と民間人を含む1,558名
What(なにを)軍部主導の天皇親政国家の樹立
Why(なぜ)国民が貧困にあえいでいる中、政治家らは私利私欲のために動いており、天皇の意に沿っていないという彼らなりの考えから
How(どのように)ターゲットを国賊として殺害、政治中枢部を占拠後に自分らの要求(Whatの部分)を陸軍大臣を通じ天皇へ提出。

人物相関図

226事件の主要人物の相関図です。

記事本文と照らし合わせて読み進めてください。

226事件の人物相関図

226事件の人物相関図

蛇足ですが、

牧野伸顕は515事件でも襲われていて

226事件でも襲われましたが2つの事件で

無傷という強運の持ち主。

麻生太郎は牧野伸顕の曽孫にあたります。

 

プロローグ

 

昭和11年2月26日早朝。

2日前からの大雪で帝都東京は白銀に覆われていた。

その早暁の雪道を黙々と進む青年たちがいた。

彼らは国家改造を目指し、軍や政府高官を襲撃、首都の中心部を占拠したのだ。

国民を苦しめている腐敗堕落した政治勢力から国家権力を奪還し、軍部の手で天皇親政の新しい政府・国家の樹立が昭和維新だという。

彼らの合言葉は

尊皇討奸(そんのうとうかん)

 

日本近代史上未曽有のクーデター未遂事件の「226事件」である。

本人たちは国家の破壊が目的ではないので

クーデターや革命とは異なると主張していた。

警視庁を無血占拠している

226事件はなぜ起きたのか、なぜ青年将校らは決起したのか

 

過去の歴史は当事者たちでない限りは真に読み解きにくい。

なぜなら当時の時代背景や情勢を点では見れるが線で見ることが難しいからだ。

226事件については陰謀論だとかの説もあるが、

それはひとまず置いておいて時代の流れから読み解いていく。

1.経済恐慌や飢饉で地方が貧困にあえいでいることに憤る

1929年10月にウォール街を発端にした経済恐慌。

またたくまに日本の農村を直撃した。

生糸や農産物価格の下落だ。

そこに追い打ちをかけるかのように凶作飢饉に襲われる。

疲弊しきった農村では娘の身売りが横行した。

のちに決起することとなる青年将校たちはこうした社会情勢を目の当りにして、国家が危機に面している思い危機感を募らせた。

くわえて青年将校たちの部下の多くは地方農村出身者であり、

部下から兄弟の身売りの話や貧困の話を聞き、

為政者への怒りを貯め込んだ。

青年将校とは・・・陸軍士官学校を卒業しすぐに隊付勤務に就いた将校のことである。10代半ばから陸軍内部で培養されてきており、直情的で視野が狭いと言えるだろう。学校では理想を学んできたが、実際に部下の下士官や兵と触れ合い話を聞くことで理想と現実との違いや矛盾に気付き、その純粋な心を悩ませていくことになる。

不況と飢饉により山形県では娘の身売り相談所が設けられた。今では信じられないことだ。

2.エリート軍人たちのクーデター未遂に翻弄される青年将校たち

こうした経済恐慌や貧困、共産主義の台頭に危機感を募らせ行動を始めたのは、

最初は青年将校ではなく東条英機などの将来を有望とされたエリート軍人や民間の国家主義者たちであった。

彼らはグループをつくり国家の改造を目指していた。

そして彼らが裏で糸を引く事件やクーデター未遂が度々起こり、きな臭くなっていく陸軍の周辺。

その中でもとりわけ武力行使も辞さないという「桜会」という会があり、この会の主催者:橋本 欣五郎が計画したクーデター計画は226事件よりも大規模であったという。しかし、直前で憲兵に拘束され計画はとん挫する。

そのクーデターに実行部隊として参加するとされていた青年将校たちは

計画がとん挫したことで、

「行き場のない怒り」

「上層部への不信」

が残った。

クーデターも所詮はエリート軍人たちの出世の道具に過ぎないのではないかっという不信感が募った。

その後もクーデター未遂は起こるが、そこに高級軍人の顔はなく、若者だけで行われていた。

国家主義者の北一輝。青年将校らは氏の『日本改造法案大綱』に心酔した

3.青年将校たちをよそに繰り広げられる陸軍上層部の派閥抗争

 

エリート軍人たちはしだいに国家改造計画を忘れ

派閥争いに突入していく。

皇道派統制派の争いだ。

皇道派統制派
腐敗した政権を排除し、天皇親政の国家を作る皇道派の連中に好意を寄せていない者たちを統制派と呼んだ
荒木貞夫陸軍大臣
真崎甚三郎参謀次長
など
(決起した青年将校たちもここに含まれる)
永田鉄山
東条英機
など

はじめは皇道派トップである荒木が陸軍大臣だったため、自分の腹心で周囲を固める人事を行っていた。

しかしその後、荒木陸軍大臣が体調不良で辞任した。

そして後任には皇道派ではない林 銑十郎が就任した。

林は皇道派ではないので、荒木があえて外していた統制派の面々が上層部に戻り、これを機に息を吹き返してきた統制派。

そんな中、皇道派を追い詰める事件が起こる。

 

4.統制派のデッチあげ事件!?士官学校事件

陸軍大学の生徒3名が不穏な動きがあるとして憲兵隊に検挙された。

そしてそのうちの2名は免官という重刑となり軍籍から追放されてしまったのだ。

この事件はのちに統制派が皇道派の危険分子を軍から追放するための「デッチあげ事件」といわれている。

この時に民間に解き放ってしまった2名こそ、のちに226事件で中心人物となり軍部に牙を向くことになる

磯部 浅一

村中 孝次

の2名であった。

226事件の中心人物となる磯部 浅一

5.さらに続いた皇道派への締め付けと怪文書、永田鉄山の殺害

一方の陸軍上層部では皇道派一掃の動きが激しくなり、

新たな人事案が作られていた。

荒木が体調不良でいなくなったため、

軍上層部に残っている皇道派は真崎甚三郎であった。

その真崎が更迭されたのだ

真崎の更迭が伝えられた昭和10年7月16日

この更迭劇は「統制派の永田鉄山が中心となって画策したものだ」という怪文書が皇道派の将校たちに流れた。

怪文書は真崎らが作成したとみられている。

この怪文書が流れてから約1ケ月後の8月12日

その永田鉄山が軍刀で殺害された。

犯人の相沢三郎中佐は「奸賊に天誅を加えた」ということで青年将校たちを刺激した。

 

6.青年将校たちを焦らせた最後のダメ押し!満州派遣

12月になるとかねてから噂されていた第1師団の満州派遣が正式に決定した。

隊にいた青年将校たちはこれで決起を急ぐことになり秘密裏に会合を繰り返すようになり慌ただしくなっていった。

そして2月26日を迎えることとなる。

なお、決起に参加した半数以上はこの第1師団のメンバーである。

226事件が発生するまでの流れ

226事件が発生するまでの流れ

 

決起に参加した下士官は命令に従う必要があった

 

決起の中心人物である青年将校ら20人をはじめ、

その将校の配下に置かれた下士官など併せて1,558名にのぼる。

このうち下士官たちには同情の余地がある。

  • 下士官たちはAM2時から4時という熟睡中の深夜に突如、非常招集をかけられ、難解な命令を下された。
  • 出動の命令の内容も所属の部隊で様々な説明をされた「昭和維新断行のため」「首都圏の警戒のため」「暴動鎮圧のため」。
  • 兵士の大半は1ケ月前に入営したばかりの初年兵で軍隊経験も浅かった。

そして

「上官の命令は朕(天皇)の命令だと思え」っと徹底的に教育されてきている。

 

このような条件下で兵士たちは226事件に巻き込まれていくのだ。

 

青年将校らに命令され従うしかない下士官たちの因果関係

下士官は将校らの命令に背くことなどできるわけがない。

しかし、事件後に有罪となった下士官もいるし、罪に問われなくてもその後の人生で後ろ指をさされるようなこともあっただろう。

命令に忠実に服従したのに有罪となり、大きなわだかまりが残っただろう。

こういった彼らを思うとひどくいたたまれない気持ちとなる。

彼らを反乱軍だとかクーデタ―の犯人だと一括りにするのは非常に切ない。

この表を見ると初年兵が大半をしめていることがわかる

義軍お決起隊から一転、反乱軍となる

投降を促すアドバルーン

それぞれ実行部隊に分かれターゲットを襲撃、警視庁と陸軍中枢を占拠した彼ら。

彼らは陸軍川島陸相と面会し「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」なるものを読み上げた。

これには決起した理由がまとめられており、それを天皇に伝達するよう迫った。

昭和天皇は「速やかに鎮定せよ」とはじめから断固たる態度を示していたが、同志打ちは避けたいとする軍部の意向もあり、天皇の意向を汲めず、対応は遅れていく。

ついには天皇からの命令によって決起隊を原隊に帰らせようとする奉勅命令が下達された。

決起部隊は国の為に決起した我々こそが義軍であるという自負があったが、奉勅命令が下達されたことにより一転、反乱軍(賊軍)となってしまったのである。

ついには武力鎮圧が決まり、重武装の鎮圧隊が出動することになり、皇軍相撃が目前に迫っていた。

 

終結:最後まで抵抗していた兵の心に響いた「兵ニ告グ」

 

何も知らずに上官に従い逆賊扱いされた兵士たちを悲痛に思い、彼らを説得するために動いた人物がいる。

陸軍省新聞班の大久保弘一少佐だ。

28日の夜から徹夜で降伏勧告文を作成し、翌日の朝にヘリで上空からビラを撒いた。

しかし多くは兵士たちに渡らなかった。

そこでラジオ放送へ飛び込んだ。

大久保は放送室のマイクを握るが言葉が出ず、何も話せない。

手元にあった便箋に2分足らずで原稿を書きなぐった。

居合わせた中村茂アナウンサーが「私が放送しましょう」っとあの「兵に告ぐ」が繰り返し放送された。

多くの人々が兵たちに同情し涙を流し、中村茂アナウンサー自らも涙したという。

兵に告ぐ

敕命が發せられたのである。既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。お前逹は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從して誠心誠意活動してきたのであらうが既に天皇陛下の御命令によつてお前逹は皆復歸せよと仰せられたのである。此上お前逹が飽く迄も抵抗したならば夫は敕命に叛抗することになり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じてゐたのにそれが間違つて居たと知つたならば徒らに今迄の行き懸りや義理上から何時までも叛抗的態度を取つて天皇陛下に叛き奉り逆賊としての汚名を永久に受けるやうなことがあつてはならない。
今からでも決して遲くはないから直に抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。さうしたら今までの罪を許されるのである。
お前逹の父兄は勿論のこと國民全體もそれを心から祈つて居るのである。速やかに現在の位置を棄てて歸つてこい。

戒巖司令官   香椎中將

 

自分たちは皇国の為の行動だと思っていたが、このままでは逆賊の汚名を着せられてしまう。

 

次第に部隊に戻っていく兵士たち。

帰順する下士官兵

帰順する下士官兵

そして一部の青年将校は自決するが、残った青年将校らは

「自決したらすべてが水の泡だ。」

「死ぬのはいつでも死ねる。」

「真相を天下に明らかにするため戦いの場を法廷に移そう」

と心に決め、これで事件勃発から4日後の2月29日に皇軍相撃することなく、事件は終結を迎えた。

 

法廷闘争を選んだ将校らの悲しい末路

 

軍部は青年将校たちの法廷闘争で裁判が長引くことを嫌って、特設陸軍軍法会議という秘密法廷で彼らを裁いた。

暗黒裁判と云われている。

特設陸軍軍法会議では「弁護人なし」「非公開」「上告なし」が適応される。

そして彼らは発言の機会もなく捕虜のごとき尋問を受けたとされる。

行動事実だけを調査され、思想信念動機は一切の発言を許されなかった。

自決せずに法廷闘争を最後の手段に選んだ将校たちはこの軍部の対応に憤慨し涙した。

彼らの声は天下に知られることがないまま、決起将校のほぼすべてが死刑となった。

死刑判決を受けた青年将校たちは現在「渋谷税務署」が建つ場所で処刑された。隣接地には慰霊像が建設されている。毎年2月26日には供養の供え物が置かれる。写真は2016年2月26日に撮影したもの。

 

エピローグ:226事件のその後

 

226事件の後は陸軍では皇道派は追い出され、統制派が主導権を握った。

そして統制派は次は政治のイニシアチブをも握ろうと動き出す。

広田内閣の組閣に露骨に介入してきたのだ。

本来なら事件を起こした軍部を謹慎し、政党が追及しなければならないところを、彼らの武力を事件で目の当たりにした政治家は委縮してしまった。

そして政治のイニシアチブを取った統制派は戦争への道を進んでいくことになる。

 

もしも青年将校たちが226事件に成功していたら?

いずれにせよ戦争への道は回避できなかっただろう。

しかも青年将校らは従来の天皇機関説に基づく政治ではなく、天皇を全面に押し出した天皇親政国家を目指していた。

もしそれが樹立されていたら敗戦時に天皇の戦争責任を問われ、天皇制の存続は難しかったかもしれない。

 

余談①:決起前日の逸話

今はなき、銀座の老舗キャバレーの「白いばら」(2018年1月30日閉店)

ここに数人の青年将校が来店。帰り際に店の植木を軍刀で切り「明日の新聞号外を楽しみしていろ」とホステスたちに翌日の決起を示唆したという。翌日の号外にホステスたちは心底驚いたことだろう。

余談②:犯行現場の高橋是清邸は見学できます

東京都小金井公園内の「江戸東京たてもの園」に移築されています。

私は2回見に行きました。

昔の歪んだガラスや数寄屋つくりな日本建築が好きな人は是非行くことをおススメします。

 

226事件と515事件

226事件の4年前に515事件が起きている。

515事件も軍人による国家改造のクーデータだ。

昭和維新は

「血盟団事件(民間)⇒515事件(海軍)⇒226事件(陸軍)」

という歴史の流れだ。

 

昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫が 胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花


主要参考文献:「図説2・26事件 平塚柾緒著  河出書房新社」「2.26事件の謎 新人物従来社」

画像出典:Wikipedia